逝きし世の面影

渡辺京二の「逝きし世の面影」を読んだ。江戸末期の開国期の日本を訪れた外国人の残した記録から、当時の日本と日本人の姿をさぐった本。自虐史観を否定、というとすごく生臭いのだが、近代以前を野蛮だったとする現代人的な偏見を捨ててここはひとつ素直に受け止めてみようじゃないか、という姿勢なので内容は大変ポジティブ。読んでいて気持ちがいい。開国というのは近代化をむかえつつあった文化と近代を知らない文化の出会いだったのだ、という視点がなかったので意表をつかれた。

●しかし一番しびれたのは冒頭である。

 私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまずひとつの文明の滅亡から始まる。
 
 日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振った清算の上に建設されたことは、あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な含意もあわせて十分に自覚されているとはいえない。十分どころか、われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。

 
だから日本人として当時の美徳を取り戻しましょう、という素敵な意見は鼻で笑うべきなのだ。それは逝ってしまってもう無いのだ。滅んだものはこうであったろうかと推測するしかないのだ。
 

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 
 
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