ルナーの様式

いとうせいこうみうらじゅんの「見仏記3」によると、タイでは仏像が並んで置かれていることがあるそうです。横ではなく前後に。ワット・ボウォニウェートでは「“親子仏”は三組になって重なっている」といとうせいこうは書いているのですが、ググってみたところ(いい時代ですね)、本尊の仏像は2体並んでるようです。写真のあるサイトにリンクを貼ります。音楽が流れるので注意。
ワット・ボウォニウェート(釈迦牟尼仏)
金色の仏様が前後に並んでいる光景はインパクトがあります。

●リンク先の説明によればタイでは仏像も喜捨の対象なので、喜捨された仏像を本尊として並べて置いても不思議ではないそうです。また寺院以外でも、仏像がこういう置かれ方をしてることがあるようです。

●見仏記では、いとうせいこうはあえて調べずに憶測を書いているのですが、この並んだ仏像についてはこう考えています。

 おそらく、子仏が釈迦で親仏がそれ以前の仏という解釈だろうと思った。以前といっても、それもまた釈迦という転生思想が前提である。そう考えておけば、入滅後の釈迦はいつでも復活出来る。つまり、親子仏は釈迦の永遠性を強調しているのに違いなかった。
(中略)
 私は唐突に何かを悟ったような気になった。
「こうして見ると、一番大きな仏の向こうにもっと大きな仏があるんだって気がしない? ずーっとずーっと宇宙の果てまで連なってるんだよ」
「うんうん、するする」
「逆に小さくたどってくとさ、手を合わせてる実際の人間がその連鎖の中に組み入れられるんだよ。ほら、あのお尻向けた脇侍の仲間になれるわけ。祈ってるポーズは同じなんだもん。それがタイの人の気持ちじゃないかなあ」
 私はその連鎖のシステムこそ親子仏の秘密だと思い、タイの仏師の想像力に感動していた。

 
●以前、混合文化のルナー帝国には独自の(美術)様式が生まれてるのだろうか、と書きました。この仏像の置き方はそのままパクれるんじゃないでしょうか。




後ろにタラルタラ、その前にセデーニヤ、一番前にルフェルザを置いて、信者をその前に立たせると、いとうせいこうが受けた印象をそのまま与えられますよね。ルナーの道の連鎖を実感させるには有効だと思います。

●というようなことを、ルナーの仏師司祭になったつもりで考えてみました。予算がなければタラルタラは壁画にしてもいいです。本来同じものである女神に大きさで差をつけるのはおかしいと全否定されそうな気もしましたが。
 

見仏記〈3〉海外編 (角川文庫)

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