真夜中の弥次さん喜多さん

●境界の話で続けて、しりあがり寿の漫画「真夜中の弥次さん喜多さん」。実写化映画の方ではありません。シリーズがいくつかありますが、最初にマガジンハウスから出た1・2巻のやつ。これも12年も前なんですねぇ。



●つながってます。しかしこの漫画でやばいのは肉体的なことではなく、リアルと妄想の境界が曖昧、あるいは区別がつかないところです。2人の手がつながったのはプラモデルの本場、駿府の宿で、シンナーでラリってトリップした妄想の中でのことでした。しかしトリップからさめたはずの次の回でもつながったまま。

●4コマ漫画は4コマ目で何がおきても次の漫画では戻ってるものですが、次の漫画までそのままだと驚く。それに近いです。キタさんは言います。「おらあ もお ホントだかウソだか 夢だか なんだか わからねえ……」 もともと2人の旅はキタさんのヤク中を治すためのものだったんですが。

●2人の手がつながる2巻の頭から話が加速します。1巻ではときどき忍び込んでくる漠然とした不安だったものが、はっきり描かれ始めます。ここからクライマックスに向けての展開に圧倒されました。2人のリアルからの逃避がそれこそ必死なものになっていきます。今考えると、この作品に感動してしまった当時の俺の心理状態も危ぶまれるわけですが。

●巻末の中沢新一の解説から一部抜粋。元ネタになった「東海道中膝栗毛」について。

ふたりは道中、瞬時もまじめなことを言わない、考えないという決意のもとに、徹底したふまじめ、鋼鉄のように堅固な軽薄をつらぬきとおす。そうして、精神のサーファーのようなふたりは、足下に広がる虚無の海原のうえを、ありとあらゆるバカをまき散らしながら、みごとに渡り抜いていった。

杉浦日向子の「お江戸でござる」の中の文章がこれに似ていると思いました。一部抜粋。

 江戸の人々は「人間一生、物見遊山」と思っています。生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えているのです。「せいぜいあちこち見て、見聞を広めて友だちを増やし、死んでいけばいい」と考えています。

この2つは同じことの裏表でしょうか。死んでいけばいいと割り切れないと「真夜中〜」の方になる。

●この情念あふれる漫画をしりあがり寿はたぶん理詰めで描いたんでしょうね。しりあがり寿は理性の人、という偏見が俺にはあります。後続のシリーズは初期の生々しさが薄れた気がします。
 

真夜中の弥次さん喜多さん (1) (Mag comics)

真夜中の弥次さん喜多さん (1) (Mag comics)

真夜中の弥次さん喜多さん (2) (Mag comics)

真夜中の弥次さん喜多さん (2) (Mag comics)