モルダウその2

ウィキペディアの「プラハの春」の項目の中に、下のような記述があります(2008年7月9日)。

チェコスロヴァキア国民の受動的抵抗
当日、国営放送は国歌「モルダウ」を流し続けるのみで対外的には何のアナウンスもせず、また国際通話やニュースの外信テレックスも封鎖され、唯一規制出来なかったアマチュア無線からの発信と、交信に応じた局や傍受したBCLによって事件は全世界の知るところとなった。

ソ連軍が侵攻した日のことです。

●今現在、チェコスロバキアという国は無いんですね。俺は関心が無かったんですが、1993年にチェコ共和国スロバキア共和国に分かれてます。それぞれがチェコ人、スロバキア人と人種がちがう。それで、アレっと思いました。対ドイツ、対ソ連ではチェコスロバキアとして運動していたのに、彼ら自身の感覚では別の人種だったんですね。

●それじゃモルダウはどうなったのよ、とこれまたウィキペディアを見てみると、チェコの国歌は「我が家何処や」、スロバキアの国歌は「稲妻がタトラの上を走り去り」となってました。チェコスロバキア時代は“1番を現在のチェコの国歌、2番を現在のスロバキアの国歌をつなげた形で歌われていた”のだそうです。するとモルダウが国歌と書かれた上の記述がまちがってることになるんでしょうか。ウィキペディアの情報を信じるな、とはよく聞くところですが。

モルダウ(我が祖国)がチェコスロバキア人に愛されたのなら、分かれた今はどうなんでしょう。