ヒョルト人の葬儀と埋葬

Epikt2007-09-27

●ヒョルト人がどうやって葬式をして、どうやって埋葬するのか考えたことがありますか? 俺はありません(笑) なんだかいつでも元気に駆け回ってる姿しか思い浮かびません。もちろんヒョルト人も死ぬわけで、戦死するか病死するかその他の理由で死ぬか、運が良ければ天寿をまっとうして死にます。そのときは女神アズリーリアの信者が葬儀をするのだろうと漠然と思ってました。

●その辺のところを Vampire.S さんがまとめておられました。ただ mixi だったので、トラックバックを貼って終わらせるわけにもいかず、次の事情を説明した上でなら、ということで転載の許可をいただきました。

※以下の文章は有志が開発中の「ルーンウォーズ」に収録される予定のもので、他の書き手のチェックを受けるために Vampire.S さんが mixi で公開されたものです。

なお、はてな記法の都合にあわせて一部修正してあります。強調を行ったのも俺です。

【R=W】オーランス人の墓制・葬制
 
* ヒョルト人の葬制・墓制  (ThunderRebels, Chapter 3: The Srorm Tribe, pp.87-)
 
お前が俺を喚ぶとき、あるいは俺がお前の揚げる煙を目にしたとき、俺はやってこよう――オーランスの火葬儀式の一部
 
ある人物が死亡すると、その亡骸はその人の実家に安置される。炉辺の火は消され、一週間の間、誰でも弔意を表すために最後の顔を見に訪れることができるようにすることで、一切の不正がその死に関わっていないこと、および(特に重要または強力な人物の場合に重要な留意事項として)自力で蘇ってこないかどうかを確定させることになる。死者の魂が静寂の宮廷に到達するまでには一週間を要し、結果として、その期間を過ぎた後での蘇生は自然の摂理に反したものとなり、かつてのその肉体を動かしていた当人の魂とは異なるものがその身体を動かすという事態となる。
 
八日目になると、家族は男性の遺体の場合は薪山の上で、女性の場合は火葬用のオーブンの中で、家族の手により荼毘に付される。この後、男性の場合は、その遺灰が風に撒かれた後、親族の手で骨やその他のよすがが骨壺の中に納められる。一方、女性の場合は遺灰も含めて納められる。“テカ”と呼ばれるこれらの骨壺は、骨壺の原に安置される。家族は副葬品を盛り込むことが常の慣わしである。祈念と追悼の期間は、火葬から数えて完了までに1年を要し、その後、死者は正式に祖霊の列に加わる。
 
オーランスとアーナールダは生命の守護者である。両神は共に、一度死に、地界へと赴き、そして生命と光と共に黄泉返って、死の土地と化した地上を再び生命で満たした。両神はその信者が義しい生を送ったのなら、この宇宙のどのような所からでもその魂を回収すると約束している。従って、彼らの信者はよその土地で異邦人に囲まれて死んだとしても、恐れるものは何もなくて済むのである。

 
* ヴィングコット人の墓制 (DragonPass, Burrow Mounds, p.40 囲み記事)
 
墳丘墓/Burrow Mounds
墜ちた嵐の戦いにおいてヴィングコットが混沌によって致命傷を受ける前まで、オーランス人達は死者を火葬にし、遺灰を骨壺の原に納めることをしなかった。その代わり、彼らは死者を墳墓または墓石の下に、死者が生前入手したものの内最高の宝と共に埋葬した。ヴィングコット王を荼毘に付した後、闇より前のものどもが死者をこれ以上辱めることを止めさせるべく、オーランス人達は葬制を火葬に改めたのである。
 
典型的な例を挙げると、族長や近侍の墓における塚の大きさは、平面形が直径60m以内、垂直高が6m程度である。王や英雄のそれはこれよりもずっと大きく、しばしば自然の丘や山と間違えられることになる。農民や小作人の墓は、あるとしても小さな墓の上に塚が小規模に盛られるだけである。
 
墓内部への出入り口は、墳丘の北側に開口して南向きに進んでおり、中に入ると短い横穴を経、墓の中心部へと緩やかに昇る傾斜に接続、そのまま内部石室へ入ることになる。玄室は通常平面形が9m四方の正方形、高さ3mの直方体状になっており、壁面は岩と坑木で支持される構造になっている(※1)。副葬品の多寡は被葬者の所有していた富に依存しているが、とくに貴人の場合棺台と荷車、綴れ織り、武器と防具、ブローチ、トルク、角杯、蜜酒用盛酒器、そして金銀等が含まれる場合がある(※2)。
 
当然の事ながらこのような場所は聖別されており、墓を荒らすものには、祖霊よって駆り立てられた死者の子孫達に加え、さらにアズリーリアとタイ・コラ・テックの怒りを買う危険性がある。


 
*訳注と解説:オーランス人の墓制について
 
オーランス人の墓制については、我々日本人には比較的なじみの薄い概念が登場するので、その点について二三付言しておく。
 
まず、この種の考古・歴史学的用語について述べると、墓制には標準的に薄葬と厚葬の二類型が存在し、薄葬は死者を簡素に祀り(また、しばしば火葬として死体を完全に消滅させ)、一方で厚葬は逆に死者を手厚く葬り、副葬品の量も多い(また、土葬により死体をなるべく生前のまま保存しようとすることを伴うことが多い)。厚葬の例としては、古代エジプトのピラミッドなどが最たる例であり、この種の文化には時に墓の造営を人生目的とするに至った例が見られ、共同体を危うくすることも絶無では無かった。日本を例に取った場合、当然ながら厚葬は古墳時代に見られ、大化の改新時(孝徳天皇大化二年)に『薄葬の詔』により薄葬主義に転じたとされる(参照:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3 )。
 
オーランス人の葬制についてまとめるなら、神話・太古時代は厚土葬主義であったものが、歴史代に入ると薄火葬主義となっているのであり、その理由として「死体が混沌に汚染されるようになったから(あるいは、当然ながらアンデッドの存在が顕在化したことも考慮に入れるべきだろう)」とされている。ところで、この変化と同時に民族自称もヴィングコット人からヒョルト人へと変化しており、結局両者は民族として相当別な存在と化していることも考え合わせれば、両者の血統的連続性について疑義を呈する資料として興味深い。
 
さて、上記オーランス人の葬制についてであるが、これは明白な元ネタが存在する。ヨーロッパ中部における青銅器・初期鉄器文明における主要登場人物の一つはケルト人達であるが、彼らの文化は紀元前1,200年頃を境に塚山文化(tumulus culture)期から骨壺原文化(urnfield culture期に移行することが知られており、オーランス人の葬制は本文中に現れる副葬品や墓の構造なども含めて基本的にはケルト人に関する考古学的研究結果に準拠している(なお、北欧のゲルマン人などもurnfieldを営んだことが知られており、必ずしもケルトのみの文化ではないのだが、とにかく“非キリストの古代ヨーロッパ”を象徴する文化というイメージがあるのは確かである)。副葬品や墓の構造に関する記述なども、基本的にケルトの墳丘墓の発掘結果をそのまま使用しているので、より詳しく知りたい向きはそれらをキーワードに関連図書を検索すると良いと思われる。
 
** 個別事項に対する補足
 
※1 日本における古墳の用語を用いれば、横穴式石槨ということ。竪穴式と比べると、墳丘を造作する際に技術と手間が掛かるが、埋葬後も玄室へアクセスすることができ、例えば祖先祭祀や親族の追葬等が可能であるため、古墳時代後期に一般化しているタイプである。
 
※2 いずれも、ケルト人の貴人等の墓によく見られる副葬品であり、基本的に軍事権(武具・荷車=戦車)、威信財(綴れ折り、ブローチ・トルク等の装身具、金銀)、宗教権(角杯、蜜酒用盛酒器等の酒器。なお、盛酒器の原語はcauldronであるので、意味的には古代中国における“尊”や“鼎”等に対応する大型青銅鍋であると考えられる。酒器は、酩酊を通じて神々を観相するための道具として扱われていた時代がある)等の首長権を表示している。いずれも古代墳墓の副葬品としては標準的なものであり、その他の古代文化であればこれに宝貝(威信財・遠距離交易の象徴)、楽器(宗教権)、木・竹簡等の文書(行政権)等が見られるだろう。ヒョルト人でこれらの副葬品が見られるかどうかは、各GMが決定するべきである。

 
●本人が自力で帰ってくるかもしれないのでしばらく様子を見る、というのがグローランサの真骨頂ですね(笑) 実際、衆人環視の中で神になったサーター王には、墓がいらないわけです。ヒョルト人は場合によっては氏族をあげてトゥーラを移動するらしいので、骨壷式は移動しやすくてよかろうと思いました。意外だったのは墳丘墓です。ということはドラゴン・パスの風景には、そういうものも含まれるんですね。