コメント欄から

●コメントいただいたので雑談モードで考えてみた。

mallion 2012/08/26 04:26
オーランス自体が首長と戦士の相をもっているので、ある程度は機能を持っているのかもしれないですけどね

どこで読んだのか思い出せませんが、オーランス人には戦争をした後、帰ってきた男たちを日常モードに落とす儀式があったような気がします。日常と戦争を区分してるわけで、ハレとケですね。それは指導者にも及んでるのではないかと考えたのですが、もちろん地球にも長老がそのまま戦争指揮官になるやり方もあるのでしょうし。
 

kosaki 2012/08/26 04:35
うちの実家は曹洞宗なんですが、曹洞宗臨済宗をさして「考えただけで悟りが得られるかバーカ、まずは座れよ」などとバカにするらしいですがお寺に古い記録はがしがし残ってます。なので啓発に対する態度と記録に対する態度に相関関係をもとめる態度はいまいちしっくりこないものがあります。このへん、なにか典拠があるんでしょうか

俺の禅の知識は京極夏彦の『鉄鼠の檻』がほとんどすべてなので何とも言いようがありませんが。

グローランサの「啓発」は禅でいう悟りとはちがうようです。その直接なイメージはたぶん「悟法」になるのでは。2chのスレだかで言われてましたが、啓発は神秘主義といった方が近いそうです。じゃあ神秘主義と禅のちがいは、となるともう説明できんのですけど。

それで“全(All)との合一”を啓発の定義とすると、全とはなに? ってことになりますよね。まずルナーの道でいう砕けて大小の破片になった世界という概念を受け入れなければなりません。その破片の間には価値の差はありません。オーランスですら破片の中の大きいものでしかない、ということになります。そしてランカーマイ信者の記録行為は生きた実体や事件をみんな文字という羊皮紙のインクのシミに落としてしまうのですよ。ランカーマイ自身もです。これはかなり危険ではないかなと俺は思うのですが。
 

kosaki 2012/08/18 02:22
ふつうのオーランシーは600年周期の話なんて知らないから無問題なのでは?ランカー・マイとかだと1年で繰り返すという感覚を喪失してそうだし

史観という問題なのかな、と思うのです。最近読んだレヴィ=ストロース周辺のにわか知識で申し訳ないのですが、歴史とは未開から文明化に向かうものだ、という考え方は一部の文化によるもので、人類全般に通じるものではないそうです。「国家に抗する社会/冷たい社会」と「国家へと向かう社会/熱い社会」という概念があり、グローランサをデザインした人たちはそれを取り入れたのかなと思います。歴史=発展は後者のもので、そちらから言うと前者の歴史は止まってるようなものです。

オーランス信者の蛮族の社会は前者でしょう。俺らは生まれたときから後者に属していて前者の社会の人たちがどんな考え方をするのかはもうわかりません。たとえば死んだ自分の祖父母や両親は祖霊の一員になり、神話に組み入れられる。そして神話の世界には「時」が無い! といったあたりからなんとなく想像してみるのですが。
 
 
▼▽ 広告 ▽▼
広告にあからさまにオカルト絡みのが入ってるんですが、運営はそれでいいのかね。無責任じゃないか?