神教の供犠

●これも泥縄。神教の供犠(Sacrifice)について。ちゃんと理解してるかあやしいですが、自分のために書いてみます。

●「Thunder Rebels」によれば(難しい説明でしたが)、神に生贄や物品を捧げることが供犠である、というのは間違った考えだそうです。神はそういうことを認識しません。経験や変化や創造は人間(それに近い生物)にだけ許されます。神は静止してるんですね。しかし信者は神と経験を分かち合うことができます。これが神教の秘密だそうです。

●供犠の儀式で神に捧げられるのはこの分かち合う部分です。「物質的な道具は正確に、より簡単により強く儀式を誘導するのに必要ですが、主要な要素は入信者と帰依者の参加です」ということになります。そしてこの霊的な捧げものの見返りに魔術を受け取るのが神教の仕組み。

●ヒョルト人が大がかりな祭礼の後、神に供犠した動物の肉でご馳走を食べるのもこの理屈によるようです。オーランスは肉の捧げものを拒絶したことになっていて、神々は焼けた骨や皮や人間が食べない臓物などを喜ぶとされています。単純に、神は人間を通じて飲み食いすると考えるのがわかりやすいのかもしれません。

●そしてランカー・マイです。同じ理屈でランカー・マイの信者が牛肉を食うのはまったく正しいことになります。賢者(帰依者)が牛肉を食い、見習い(入信者)が羊肉しか食べられないのもたぶん神とのシンクロ率とかその辺の問題なんでしょう。

●ランカー・マイは本や巻物、地図などの供犠も喜びます。しかしカルトの内部にはオリジナルの原本を供犠するべきか、写本でいいのか、学生のノート程度でも許容されるのかという意見の相違があるそうです。人間の感情のぶれが大きいほど供犠の効果はあるようですから、失いたくない原本が一番いいように思いますが。