日本の癖

グローランサ世界に日本を置くとどう見えるのか、暇なときに考えてみたりします。

●コメントで、“例えばテーブルマナーの先生が政治的に重要なポジションにつき、最終的に権力者と対立して刑死させられることがあるか”というようなことを書きました。つまり千利休は海外で理解されるのかな、ということです。本当はティーパーティの先生だったから殺されたのではなく、他に政治的な問題があってああいう結果になったんだそうですが。しかしこの話から茶道を抜いたら成立しないとは思う。

●日本の剣術はなぜか哲理に至る、という話があって、中島敦の「名人伝」という小説がこの境地を書いてます。弓の名人がついに弓を手放すという“上がり”に至るんですね。人を殺す、とか獲物を射るという技術の問題がなぜか哲学にたどり着く。なぜか武器を持たなくなっちゃう。

●海外でこういうパターンがあるのかな、と考えると浮かぶのが少林寺で、あれは禅ですよね。でも修行という過程として体を使っているわけで、それ自体が目的ではないはず。ミステリー小説のシリーズ「修道士カドフェル」のカドフェルは傭兵として鳴らしながらも武器を捨てて修道士になるのですが、別に哲理に至ったわけではなくて、若い頃あれだけ好き勝手やればそりゃ修道士になってもいい心境になるわ、とあまり参考にならないのでした。ギリシアの哲学者にも格闘技をやっていた人がいた筈なんですが、その関係はどうなってるんだろう。